認知症を通して考える「老い」や「死」について

山登りをする人

2020年になってからというもの、「老い」や「死」について考える機会が多くなった。

世界情勢のこともあるが、やはり直接的にダメージを与えるのは身近な人の死である。

 

今年に入ってから、私の祖母は認知症の傾向を見せはじめた。

始めはちょっとした物忘れなどの症状が、最近では幻覚を見るようにまでなった。

毎日狂ったように掃除機をかけ、テーブルを拭き、すべての入れ物に蓋を乗せる。

「虫がうじゃうじゃいる」「バケモノが這い上がってくる」

と、日に何度も訴えてくるが、そんなものはいない。

だが、否定的な言葉は認知症の人にとって最も良くないと聞いたため、適当に受け流した。

心の余裕がない時は「そんなのいないよ!」と言ってしまうこともある。

 

人間は、心に余裕がある時には人に優しくなれる。

だけど、たいていの問題は心の余裕を奪った上でやってくる。

これこそが修行なんだと思った。

余裕のある時には簡単なことが、余裕がない時にはものすごく困難になる。

だから、児童虐待などの問題も一概に加害者だけが極悪人なんだと短略的な結論は出せない。

 

幼少期、よくお茶碗が飛んできた。

ヒステリックに怒鳴り散らす母親を、悪い人だとは今思わない。

だけど、泣き喚いて親の正気を失わせる弟にも罪はなかった。

生きるのは大変なんだなと思った。

 

人を愛する難しさ。

余裕があればできるかもしれない。

だけど、綺麗事だけではやってゆけない生きるという諸行。

不器用に歪に積み上げていく毎日があればそれでいい。

 

認知症の祖母との暮らしは酒を飲まなきゃやっていられないけれど、色々なことを考えさせてくれる。

きっと、本来であれば50歳を過ぎたあたりから直面する人生のテーマなのだろう。

私は20年早くそれに直面した。

20年後、親もこうなるだろう。

そして、いつかは自分もこうなる。

 

寿命100年時代を生きる私たちは、人類にとって初めての問題に直面している。

大正時代の女性の平均寿命は約45歳だった。

たくさん子供を産み、一番下の子供が成人する前には死ぬのが普通だった。

現代を生きる私たちは子育てを終え、そこからまだ半分の寿命がある。

だけど体は確実に衰えてゆく。

どう生きるのか、それを考える時には半世紀先を見据えなければならない。

困難な時代だ。

 

若い頃には、目先の人生しか視野になかった。

自分はずっと年寄りになんてならないような気がしていた。

そんな視野が、一気に「死」という場所にまで広がった。

 

人間の悩みや苦しみの多くは肉体から端を発する。

コンプレックスや、苦しみは肉体があるから生まれる。

その肉体に振り回されながら自分という意識がある。

 

死んだらどうなるのだろうか。

きっと自我がなくなってフワ〜っと宇宙を漂う目に見えない何かになるのだと思う。

肉体がないのだから苦しみもなく、意識もない。

そうなれば、「死」は解放だと思う。

お疲れ様でした。みたいな感じか。

 

人生には、知らないから幸せなこともあるし、知らないから犯す過ちもある。

いつ直面するかの問題であって、直面した時に考えればいいのだろう。

人は生きていれば必ず老い、いつか死ぬ。

そのことを知っているだけで見えてくるものもある。