社会問題から見える神的世界を失った近代の自我

多くの人々が、正論を振りかざす。

もちろん、それは正しい、真っ当な意見だ。

幻想のような夢を追いかける自分は、それに対して勝てる言葉を持たない。

それでも原始衝動のような、赤ちゃんが泣きわめくようなどうしようもない叫びがある。

社会をひっくり返そう、革命を起こそう、などという考えを持っている訳ではない。

もう、既に社会に打ち負かされてしまったんだ。

生きる希望を失い、夢も希望もない。

自然災害で多くの人が亡くなっている状況で甘ったれたこと言うな

そう言われてしまえば、自己嫌悪に陥る時もある。

だけど、そうじゃない。

働きたくなくて、特権的な身分を持ちたくて、斜に構えて、働いている人を馬鹿にしているのではない。

自分はもう壊れてしまったのだ。

 

壊れてしまった自己を取り戻したい

それは、近代に特有の葛藤だ。

アニミズムの世界は森羅万象を通して見えてくる世界であるので、そこではそれぞれのものがユニークであると同時に全体に繋がっている。

一方自我としの「私」の世界はただ一つの抽象的な絶対点から見られている、いわば一点透視法による遠近法的な世界なのである。

それは自我が全体を俯瞰しているという意味で全体性であると同時に、全体を俯瞰している自我が抽象的でどこにも属していないという意味で全てから切り離されているとも言える。

「私」という統覚するものがなくなると全てが断片化して、意味のないバラバラのものになってしまう。

しかし近代的自我を外すことに抵抗を持たなければ、何も断片化した世界に陥るのではなくて、むしろそれぞれの物が世界を持っているようなアニミズム的世界が現れてくるのである。

 

ユングの求めていたもの、追求していたもの、葛藤は全く近代の問題に真正面からぶつかっていくようなものだ。

ユングは自分の一生を「無意識の自己実現の物語(歴史)である」と言っていた。

ユングにおける歴史とは、精神性に偏り、身体や女性性や悪を切り捨てているキリスト教がいかにして全体性を回復するかという、キリスト教に対する裏文化として広がっていく。

 

私たち日本人も、神的世界を失ってしまった。

信仰心、お祭り、地方各地の文化、風習などは形骸化され、命を失ってしまった。

それは、資本主義的価値観や、グローバリゼーションによって急速に色褪せていき、私たちの救済の場であるはずの神話的世界自体が私たちに救済を求めている。

 

なぜ正論を振りかざしながら孤独を抱え、鬱になり、自殺をするのか

正論を言う人の声は、叫び声にも聞こえる。

どうしようもない葛藤があるからこそ、私のような愚者を目にすると、憎らしく、ボコボコにしたくなる。

甘ったれたこと言ってるんじゃない、と言いながら心が泣いている。

私は、何かを打ち負かしたい訳ではない、自分の正しさを主張している訳でもない。

ただ、目に見えない何かと戦っている。

傲慢だと、もう何十人の人に言われたか分からない。

みんな目を伏せたいのだ。

こんな葛藤を持つこと自体が傲慢だと。

その通りかもしれないし、私が愚かで無知な者なのかもしれない。

それでも私は世界と繋がりたいと思ってしまう。

民族や国を超えた人類共通の世界を見たいと思ってしまう。

オウム真理教の事件は、悲劇であるけれども、そういった宗教にのめり込む人がいるということ自体が近代の問題を浮き彫りにしている。

私たちはそのことをただの犯罪者の犯した事件としてだけでなく、真剣に向き合うべき問題として捉えなければならない。