「ロビンソン漂流記」ブニュエルが終始追い求めた創作の原点がここにある

冒険心溢れる青年ロビンソンは、家族の反対を押し切って船乗りになった。しかし乗った船が難破し、彼は絶海の孤島に漂着する。彼は創意と工夫で生き延び、28年後、ロンドンへ戻る……。ダニエル・デフォー原作『ロビンソン・クルーソー』をブニュエルが映画化。日本公開はイギリス製作の英語版。

おお!と思ったレビュー

さすがのルイス・ブニュエルも原作があるとシュールな演出も出来なくて、普通の映画を作ってしまうんだな……と思わせておいてやっぱり普通ではない映画を撮ってしまうところがさすがブニュエルなのである。

この作品のポイントは、デフォーの原作小説にはなくてブニュエルが演出として加えた、浜辺で人間の足跡を見つけるシーンである。恐らくこのシーンは原住民の足跡として理解されているのだと思うが、注意して見てもらいたい。その足跡は浜辺に1つだけぽつんとあるだけだ。誰がどうやってそこまで行って足跡を1つだけつけたというのか? 勿論演出のミスではなく意図してなされたのだから、この足跡には意味があるのだ。

ロビンソンが足跡を見つけたのは愛犬のレックスを失った後である。レックスというのは国王(REX)という意味である。つまりロビンソンは自分の‘国王’を失った後、自分の足より大きい足跡(=新しい‘王’の足跡)を見つけることで新たな生きがいを得たことになる。
そのような観点から観れば、下は蟻地獄から上はバイブルまで描かれるこの作品は階級闘争を描いたもの(マルクス主義?)だと言えるのだ。

たった1シーンだけで内容を変えてしまうブニュエルのような監督はもう現れないのだろうか? いくら素晴しくても観客がいまだに気が付かないようであればやりがいがもてないだろうが、その前にそんなシュールなアイデアがもう存在しないのか?

究極な状況における人間の本質

ブニュエルにとってデフォーの小説の主人公は、完全な孤独という条件を備えた理想の人物、完璧なる自由人であった。

私に聖書は無意味に思えた

世界はただの回転する球

あるのは海と陸と緑の藻
そして私
目的もなく意味もない

というセリフや、友達になった原住民フライデーに神の存在の矛盾を問われ、答えられなくなるシーンにはブニュエルの持つキリスト教への疑問が垣間見える。

金貨を軽蔑する主人公や、それを求めて騙される文明人。

それでも最後には主人公がフライデーに「文明人の生活を恐れるか?」と聞き、「マスターが恐れないなら僕も恐れない」と答え、二人はイギリスへと向かう。

ブニュエルもユング同様、この時代においてどのような神が生きているのかを問い、ただ神話や象徴が存在しないという事実に忠実であろうという態度が見て取れる。

原始的な生活や極限状態の中に人間の本質を見出しつつも、西洋文明の侵入によって崩壊していく世界も描き出している。

「目的も意味もなくただ自然があるだけだ」という考えは正しいと思う。

「人間の意識が誕生し、そして創造しなければ世界は存在しない」とも思う。

ブニュエルの問いかけに共感しつつも、一つの物語として単純に楽しめる映画であった。

フライデー役の彼がなかなか良い味を出している。