ハサミ

私たちは常に物事を定義している。

鋏の定義とは、物を挟み込むことによって切断するための道具、だ。

それは鉄かも知れないし、プラスティックかも知れない。

 

しかし、その定義から外れた瞬間、それは鋏ではない、何か別の物体となってそこに存在する。

それは、私たちによってゴミ(役に立たなくなった不要な物)と定義し直されるだろう。

だが、鋏自体は何も変わらずに、ただ、そこに存在しているにすぎない。

今までも、これからも。

 

 

では、なぜ私たちは物事を常に定義するのだろうか。

それは習慣や、便利だからという理由だけではないだろう。

そこには、もっと重要な理由があるに違いない。

 

 

鋏が存在し、私が存在すれば、その間には関係性が生じる。

常に互いに影響を及ぼし合っているのだ。

 

そして、存在するものは全て、私から言葉を抽き出す力を持っている。

なぜなら、私たち人間は言葉によって紡ぎ出された存在であり、言葉によって世界を認識しているからだ。

そんな私たちは、言葉の糸によって簡単にほぐされ、物よりもずっと稀薄な存在になってしまう危険に常にさらされている。

 

 

仮に、もし、物を定義出来なくなってしまったら、物の存在はどんどん大きくなるだろう。

目の前の鋏は、私から沢山の言葉を抽き出す。

二枚の先の鋭い鉄の板が重なり合い、持つところが丸い輪っかで出来ていて…といった具合に。

 

しかし、鉄や板という物の定義も外れてしまったら、さらに言葉は溢れ出す。

それと同時に、私の存在はどんどん稀薄になる。

言葉によって成り立っている自分の世界から、言葉が抽き出され、自分自身が空っぽになってしまうように。

 

ましてや、物を切れなくなってしまっても、そこに有るその物体は、恐ろしく大きい時間や空間を含んだ存在であり、私たちはその大きさに圧倒されてしまうだろう。

 

 

そんな脅威は、人間という存在の不確かさに由来する。

 

私たちは、生きていれば存在していると言えるのだろうか。

言いたいことが言えなければ、自己表現が出来なければ、自分を認めてもらえなければ、身体は存在していても、自分自身は存在していないような感覚になるだろう。

 

何をもって存在していると言えるのか。

私たちは常に存在の不確かさに脅かされている。

 

 

私には名前があるが、それは他人の所有物だ。

もし、一年間誰にも会わずに引きこもっていれば、私は、自分が誰なのかすら分からなくなってしまうだろう。

 

私のことを見つめ、名前を呼び、存在を認識し、それを伝えてくれる人がいなければ、私は、私として存在することすら出来なくなる。

透明人間になったように、ふわふわと浮いて無くなってしまうだろう。

私たち人間は、人との関係性の上でやっと成り立つような、稀薄な存在ではないだろうか。

 

 

だから、私たちは物事を常に定義する。

物の存在そのものの大きさに負けないように、物を言葉というベールで覆い、慎重に取り扱う。

そうすることによって、目の前の物から言葉を抽き出されることを食い止め、自分の存在を守っているのだ。