子供の頃、親の「この服は10年前に買ったやつだ」という発言を聞いて感じたことは「10年ってどんだけ昔だよ」というイメージだった。
まだ全人生が10年ほどの自分にとって、1年は膨大な時間だった。
10年と言えば、大人になった今の感覚からすると江戸時代ぐらいの話を聞いているように思えた。
この記憶の感覚は面白い。
大人になるにつれて10年はそんなに昔の時代ではない、ついこの間のように感じられる。
記憶はどのように存在するか
ところで、最近ネットで映画を探していたら5年前に映画館で観た映画を見つけた。
そしてストーリーや、一緒に観た人、その前後の時間をものすごくリアルに思い出すことができた。
まるでその時の自分に戻ったような感覚になり、座った座席の位置や帰り道のことまでが映像のように頭の中を流れた。
ジャケットを見ただけで、普段なら思い出せない記憶が鮮明に現れたのだ。
これは記憶がどのように脳にしまわれているかを表していると思う。
記憶は、古いものから新しい順に並んでいるのではなく、ある印象をきっかけにその前後の時間がくっ付いているのだ。
だから普段は全く思い出すことさえ不可能な記憶が、1枚のジャケットを見ただけで鮮明に浮かんでくる。
時間とは瞬間の連続であるから、映画のように流れ続けていると勘違いしてしまいがちだが、時間は過去になった瞬間に様相を変える。
「記憶」の中では過去の時間はそこにずっと在るのだ。
これは本棚に並ぶ本のイメージに近い。
誰も文字を読まなければ存在しない物語が在る。
そこにストーリーが存在しているが、それは誰かが読まなければ存在しないのだ。
物質としての存在があるため、本は分かりやすいが、記憶は物質ではないから目に見えない。
だが、あるきっかけを頼りにその存在に気づく時がある。
その時に初めてその記憶は存在できる。
あまり印象に残らない出来事は記憶を辿るきっかけを失ってしまうから思い出すことができない。
つまり、その時間は存在しなくなってしまう。これが本当の人生の浪費だと思う。
心が動いた時、人は感動する。
そしてその感動が記憶を印象と結びつける。
だから多くの感動を持って生きている人は記憶が豊かで、あらゆるきっかけを元にその物語に触れることができる。
思い出は人生の財産だと私は思っている。
どう生きるべきか、誰と生きるべきか、分からない時にいつも頼りにするのはこの考えだ。
「誰といる時、心が動くか」
「何をしている時、心が動くか」
心の動きが大きいほど、その過ごした時間の濃度が濃くなる。
どうすれば人生が濃くなるか、いつもこう考えている。
視点の豊かさ
大人になって良かったと感じることが一つだけある。
それは時間感覚が広くなることだ。
子供の頃に感じた遥か昔の10年は、今やたったの10年。
1900年代という時代が大昔ではなく、つい最近のことに感じられる。
だんだんと、遥か昔の人々の生活が色つきの、リアリティのあるものに感じられてくる。
これは未来にも当てはまる。
100年、200年先の世界に想いを馳せることができるようになる。
そうすると、思考する時の主語が変わってくる。
私は、自分は、だけではなく、
世界は、宇宙は、となってくる。
広く世界を見るために必要なのは視点だ。
もちろん視点とは自分からしか見ることはできないのだが、どのように見るかという部分が変わってくるだけで世界の見え方は変わってくる。
この視点の豊かさこそが、本当の財産であり、富であると思う。
そしてそれは目に見えない。